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教育基本法の改悪を とめよう!全国連絡会 |
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皆さん、お疲れ様です。
今日この場所で私たちは、学校と教育の現場で悩み、苦しみ、また闘っている全国の仲間たちのたくさんの声を聞くことができました。フロアーにいる皆さんも、それらの声によってさまざまな思いを呼び起こされておられたに違いありません。これらの声と思いがお互いに響きあって、今日この場所から全国に向かって発信された意味の大きさを、まずは確認したいと思います。
さて、与えられた10分の中で私が申し上げたいポイントは2つあります。第1に、「スコレー=自由の学校へ」ということ。第2に、「教育基本法改悪=憲法改悪」ということです。
まず第1の点です。今日ここで私たちが聞いた仲間たちの声は、この間の日本で進められてきた「教育改革」なるもの、そしてその法的な総仕上げとして企てられている「教育基本法改正」なるものの正体を、はっきりと暴露してくれました。それはすなわち、「改革」とか「改正」とかは名ばかりで、まったく逆に、教育そのものの破壊だということです。
子どもたちや教員の多くが、今にも窒息しそうな息苦しさを覚えながら、学校生活を送っています。この息苦しさのよって来たるゆえんは、新自由主義と新国家主義がセットになったいわゆる「国家戦略」なのですが、現場ではそれが競争と管理の全面化となって現れているわけです。子どもも教員も、「不良品」として切り捨てられたくなければ(「不良品」とは最近、不登校児を指して福井県副知事が使った言葉です)、とにかく「勝ち組」にならなければならないと、競争へ競争へとたえず駆り立てられ、クタクタに疲れきっています。職務命令に従わなければ処分だと脅迫し、特高警察まがいの監視によって違反者を摘発し、強制研修によって思想転向を迫る日の丸・君が代の強制に見られるように、強張った管理主義は、心ある教員や子どもたちを、そして保護者をも、学校と教育に対する不信と絶望へと導いています。競争への駆り立てと管理による締め付けによって、異常な疲弊と消耗、不振と絶望の場となった学校は、すでに「強制収容所」に似ていると言っても過言ではないでしょう。これが教育そのものの破壊でなくて何でしょうか。
皆さんは、「学校」を意味する英語、スクール(school)の語源を御存知でしょうか? スクールの語源は、ラテン語のスコラ(scola)、さらにギリシャ語のスコレー(skole)にさかのぼります。「スコレー」とは何か。その元々の意味は、英語ではレジャー(leisure)に当たり、余暇、余裕、ゆとり、といったことでした。ギリシャ語では、余暇、余裕、ゆとりを意味するスコレーが、なぜ「学校」の意味になったのか。古代ギリシャで哲学が生まれ、それがプラトンやアリストテレスの開いた学校で教授されて、その後の哲学と近代科学の源になったことは、ご存知の方も多いでしょう。それは何よりも、生産力の飛躍的増大によって、都市国家アテネの市民に生活の余裕が生まれ、世界と人間に対する知的好奇心をのびのびと、自由に解放できるようになったからでした。この意味でスコレーは、人がさまざまな拘束から解き放たれて、のびのびと好きなことが出来るようになった状態、フリー(free)になった状態としてのフリーダム(freedom)、つまり自由ということとも結びつくのです。英語で「学者」を意味するスカラー(scholar)も、同じくスコレーに由来します。哲学も科学も、すべての学問は、精神に自由をもたらす余裕、ゆとり、つまりスコレーなしには成り立たないのです(大学はもともとスコレーの場、「レジャー・ランド」であったと言えば叱られるかもしれませんが)。大学も含めて学校は、子どもたちが、そして若者が、教員の助けを得て、自分の頭でものを考え、自分の全身で世界を感じ、他者と交流する仕方を学んでいく、そんな場所であってほしいと思います。そのために必要なものは、何といってもまず第一に、スコレー、つまり精神的な余裕、ゆとり、自由であり、それを保障する物理的な余裕、ゆとり、とりわけ時間です。スコレーのなくなったスクールは、もはやスクールではありません。
日本で数年前に導入された「ゆとり教育」の本当の狙いが、実は「ゆとり」とは正反対のもの、百人に一人のエリートを早期に選抜し、他の人々を切り捨てる「競争教育」だったことは、三浦朱門氏が明言したとおりです。競争と管理の全面化を進める「教育改革」、その法的総仕上げとしての「教育基本法改正」は、本来スコレーの場であるべきスクールの否定、学校教育の場からあらゆる余裕、ゆとり、自由を奪うものであり、その意味で、教育そのものの破壊なのです。反対に、私たちが求めるものは、学校教育に本来のスコレーを、すなわち自由を取り戻すこと、あるいは、これまで日本の学校には一度も出現したことがなかったかもしれない自由を、初めて出現させることだといえるでしょう。この自由は、新自由主義の「自由」とは似ても似つかぬ「自由」、正反対の「自由」です。「スコレー=自由の学校へ」というのはこういう意味です。教育基本法改悪阻止の運動は、子供たちの自由がかかった運動であり、私たちの自由を賭けた運動なのです。
第2の点です。教育そのものの破壊に導く教育基本法の改悪は、日本国憲法の改悪につながります。しかし、私があえて「教育基本法改悪=憲法改悪」というのは、よく言われるような、「教育基本法改正は憲法改正の前哨戦である」という意味ではありません。それでは教育基本法改悪の意味を過小評価することになる、と思うからです。たしかに憲法に比べれば、教育基本法は他のもろもろの法律と並ぶ一法律、国会で多数を取ればそれだけで改正できる一法律にすぎず、憲法のような法的ステイタスを持ちません。しかし、教育基本法の前文には、「(日本国憲法の)理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」から、「日本国憲法の精神に則り」、この法律を制定する、と書かれています。要するに、教育基本法は、「(憲法の)理想の実現」のために、すなわち、基本的人権の十分な保障と徹底した平和主義の追求という理想の実現のために制定された法律なのです。これは、逆に言えば、教育基本法の根本理念が変えられてしまえば、日本国憲法はその理想の実現の手立てを失ってしまう、ということを意味するはずです。その理想の実現の手立てを奪われた憲法は、もはや死んだも同然です。この意味で私は、教育基本法の改悪は、単に憲法改悪の前段階であるにとどまらず、すでに憲法改悪そのものに踏み込むことだと考えるのです。教育基本法は、憲法の理想の実現の手立てを保証したものとして、憲法そのものの一部をなしている、と言っても過言ではありません。人権保障と平和主義の理想は、この国の主権者の多数が本当に真剣に、自由や平等や正義や平和といったものを大切に思うのでなければ実現不可能であり、したがって、そうした主権者が育つ本当に自由な学校教育なしには実現不可能である、ということです。日本国憲法の理想を大切に思うすべての人は、教育基本法がもつ重みと、その改悪の重大性をしっかりと認識し、どうすればそれにストップをかけられるかを真剣に考え、改悪阻止に力を尽くすべきでしょう。
繰り返します。教育基本法改悪阻止の運動は、私たちの自由を賭けた運動です。皆さん、ともに頑張りましょう。