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新自由主義と新国家主義が作り出す心・10条改悪の意味

発言者: 三宅晶子

子どものかけがえのない存在そのものが受け入れられるのではなく、商品価値のある「個性」のみが評価され、差別・選別されることを、とことん教え続けることになります。(三宅晶子)

 現在、教育基本法の改悪によって法制化されようとしているのは、生きることそのものが競争であり国策への動員であるような社会を、人材と心の両面において作り出していくことではないでしょうか。

 学校は、新自由主義的改革のもと、個性化や評価のための数値目標を次々と打ち出し、子どもたちは、成績のみならず、意欲・関心・態度やヴォランティア活動、遅刻・欠席、読んだ本の数までが評価され、数値化されていきます。それは、子どものかけがえのない存在そのものが受け入れられるのではなく、商品価値のある「個性」のみが評価され、差別・選別されることを、とことん教え続けることになります。

 そして、「心のノート」は、与えられた秩序を受け入れ、愛すること、感謝して必ず「はい」のボタンを押すこと、集団の中で「役に立とうと」前向きに努力することを9年間教え続けます。そこでは、明るくすごせなかったら、それは「あなたの心のせいだ」、目的が達成できなかったら、それはあなたの意欲と努力が足りなかったせいだと「自己責任」が教えられるのです。

 新自由主義は、サバイバル競争の中で差別・選別されてもへこたれることなく、常に「前向きに」セルフコントロールし、将来的にはサービス残業や社会奉仕をも喜んでやる主体を形成しようとします。しかし、それはまた、連帯を断ち切ることによって人を孤独にします。だからこそ、そのようにして分断された個人を国家へと統合していく接着剤として、新国家主義的な「愛国心」が作り出されようとしているのです。それはまた、差別される痛みを癒し、アイデンティティの揺らぎや空洞を埋めていく心として、民衆自身の内面からも、求められています。

 現在、急速に愛国心が作られようとしていることには、4つの意味があるのではないでしょうか。まず第1には、「統合理念」として。それは、現在進行する階級化・差別化を隠蔽し、「国民」としての一体感を持たせ、「日本人」としての「誇り」という「癒し」を与えます。そしてそれは、自国内の、そして他国の外国人に対する排外主義を強めます。第2には、「国益」を優先させる心として。国内においても、また、国際政治・国際市場においても、個人の利益ではなく、国益を優先させる心として。しかし、「国益」は、国民や外国籍の住民も含めた市民の利益ではありません。そして、第3には、「服従」へと導くものとして。1966年の「期待される人間像」でも導入されようとしていた「畏敬の念」や「宗教的情操」「天皇への敬愛」は、個を卑小なものと感じさせ、自ずと上位のものに付き従う心を生み出そうとするものにほかなりません。

 そのような服従を強制する「愛国心」教育の端的な現われとして、今年の東京の卒業式・入学式での「日の丸・君が代」強制がありました。それは、戒厳令下のような監視下で行なわれ、300名以上の教職員が処分され、再発防止研修が個人や学校にも強制され、まさに「踏み絵」「転向」「隣組」が現実のものとなったのです。生徒への起立指導も職務命令が出されました。教員は、校長の職務命令に従うことのみを「崇高な使命」とした国家の代理人へと、今、変えられようとしています。

 保護者もまた、強制と排除の場に立たされています。卒業式では保護者の起立も調査されました。また、入学式の際に、教育の場に強制はふさわしくないと発言したPTA会長が学校評議員会議で地域の有力者から非難され、辞表を書かされました。

 学校を家庭や地域に開くと言いながら、校長に権限を集中させ、そこに「愛国心」のような規範も一緒に導入するならば、学校は、内なる生徒や教職員に対しては閉ざされたものになり、他方では、校長によって指名された地域の有力者が学校に介入し、規範に合わない保護者や生徒を、学校や地域からも排除していくことになるでしょう。しかし、校長もまた、教育委員会、文部科学省の「通達」「指導」に服従させられる支店長のような存在にすぎません。

 これらはすべて、単に学習指導要領を根拠にして不当に行なわれたものです。しかし、「国を愛する心」が教育基本法という法律そのものの中に書き込まれるならば、この東京都の現状が、全国化されます。そして、教育基本法は、かつて、非国民を排除し、全体主義を作り上げていった「教育勅語」と同じ機能を果たすことになるでしょう。

 ところで、この改悪案には、「国を愛する心」をはじめ、たくさんの心や態度が「教育の目標」として書き込まれようとしていますが、他方、第5条「男女共学」は削除されようとしています。これは、男女平等の理念そのものの削除にほかなりません。自民党の憲法改正案でも、憲法24条「婚姻・家庭生活における両性の平等」を「見直す」、とあからさまに言われています。どういう観点からか、「家族や共同体の価値を重視する観点から」です。これは、男女平等や性の自己決定権を否定し、家を重視するものです。現在、ジェンダー・フリーや性教育への攻撃がなされていますが、「ジェンダー」による性差別を強化することは、女性の基本的人権を抑圧し、民主主義そのものを根底から破壊するものです。そして、女性を家や男性の支配下におくことによって、一挙に国民の半分を、構造的に支配しやすくするものです。

 国家は、人々をそのように服従させて、いったいどこに導いていくのでしょうか、それはまさに戦争です。

 即ち、愛国心の第4の意味は、「戦意」にほかなりません。新自由主義を押しすすめるグローバル化した資本も、既に戦争に向かう「戦意」を求めています。

 戦後初めて自衛隊の戦地への派兵がなされている現在、私たちが住むこの国は、今この瞬間にも「人を殺す国」になっているかもしれません。だからこそ、国家の方針に従わない人質の死を「自己責任」として無慈悲に切り捨て、外交官の死は「尊い犠牲」として祭り上げる「愛国心」が、メディアに流されています。さらには、他国民の殺害に加担する「愛国心」が、求められようとしているのです。そのような国家の中で、「命の大切さ」を教える「心の教育」が、いったい、どうして可能でしょうか。人間の存在そのものを肯定し、受け入れる社会こそが、今切実に求められています。

 社会の中で世論を作っていく重要な場として、企業、メディアがあるとすれば、それら二つは既に戦争に向かっています。だからこそ、残った一つ、教育が、今、徹底的に攻撃されているのです。

 そして、教育を、徹底的に国家支配の場にするために、教育基本法第10条の改悪が、提案されています。現行法の第10条は、「教育は、不当な支配に服することなく」という文で、教育への国家・行政権力の介入に歯止めをかけていました。現行法のこの核心部分が、与党案では、「教育行政は、不当な支配に服することなく」という、とんでもない条文に書き換えられようとしています。教育行政が主語になるならば、教育行政のみが正当性を有するものとなり、それに批判的な活動をする者、即ち、教職員組合や市民運動や批判的研究者、つまり、私たちこそが、「不当な支配」として排除されるべきものになってしまいます。さらには、この改悪案には「教育振興基本計画」が付けられています。ここには非常に具体的な教育内容が書かれています。しかも閣議決定によって予算措置を伴って実行できるというのです。ですから、この改悪案は、教育行政――国と地方の与党と官僚――に対して、財源つきで完全なフリーハンドを与えることになります。これは、教育における全権委任法とでもいうべきものです。しかもその条文には、心の法定化が書かれているのです。この法律を成立させたならば、強大な権力が出現するでしょう。そして、教育の場から、心が変えられていくならば、憲法「改正」の国民投票の際に、九条を変えて戦争をしようという戦意が、着々と作り出されていくことになります。

 最後に、声を大にして訴えたいと思います。教育や子どもの問題に真剣に取り組んでいらっしゃるみなさん、労働運動を闘っていらっしゃるみなさん、憲法九条を改悪すべきでないと考えるみなさん、そして、戦争をとめようと本気で考えていらっしゃるみなさん、今は、この教育基本法改悪阻止の運動に、結集してください。私たちの力で、あらゆる手段を尽くして、この法案の上程を、絶対に阻止しましょう!